『ニューロマンサー』からの30年。サイバーパンクは現実を先取りした « WIRED.jp

tomohiro:

自己組織化チームはなぜ必要か?

77歳の建具屋さんから今日聞いた言葉が忘れられない。「体だけで働くやつは労働者っていうんだ。頭と体で働くやつが技術者。頭と体と心で働く人は芸術家っていうんだ。本物の職人は芸術家じゃなきゃいけない」

(Source: youtube.com)


(パナソニックLUMIX LX100発表。4/3型センサー+4K動画対応、F1.7-2.8 3倍ズーム搭載の高級コンパクト - Engadget Japaneseから)

これからの遠い未来にどれだけ科学が発達していたとしても、役に立たないことを一生懸命にやる世界が残っていればそこには人間の幸せな居場所があるにちがいない。

単に情報が増えただけでは、忙しくはならない。図書館にたくさん本があるからといって、それがすべて読み切れないと忙しがっている人はいないだろう。むしろ、他人との関係の中で入ってきた情報には忙しくさせられるようだ。単純な質問でも、すべて答えられない量になりつつあるし、調べてから答えるから時間もかかる。面白いと教えられた論文や本や雑誌の記事も無限にあるが、これも自分が知的に信頼する人から来た場合には、とりあえず読んでみようということになる。そして、学生や他の研究者を紹介されることもある。自分の知っている人を経由して入ってきたものには、時間が取られることが多い。
なぜ人は忙しくなったのか: 脳と意識の最先端を目指そう (via nakano) (via atorioum)

だからtwitterよりtumblrが楽。

(via vmconverter) (via akirasek) (via budda) (via gkojay) (via usaginobike) (via wcrop) (via mmmmmmmmmy)

つらくて何をしたらよいかわからないときの最善策は、「いまできることをやる」というシンプルな方法で、嵐が去るのをただじっと待つことです。

※土曜日は読む人が激減することが判明したので、個人的な話を。

たまに休日に妻が実家に帰ることがあって、そうなると僕の生活って本当にダメダメになっちゃうんです。

まず僕は全く料理が出来ないので(何度もトライしたのですがすごく不味い)、近所のコンビニのお弁当とか定食屋で食べることになるのですが、妻がいないとお昼からビールとか飲んじゃってグダグダになるんです。

さらに僕は趣味が「読書」と「音楽鑑賞」しかなくて、本屋とレコード屋をまわって、それをたくさん抱えて帰ってきて、ワインを飲みながらそれらを読んだり聞いたりしながらあっと言う間に休日が終わるんです。

たぶん独身だったらずっとこのパターンの繰り返しなんです。

でも、そういう男性って未婚既婚に関わらず、たくさんいますよね。

本当は海外旅行に行ったり、話題になっている演劇や落語とか体験したりしてみたいのですが、凝り固まってしまって新しい行動が出来ないんです。

           ※

でも、ほとんどの休日はもちろん妻は家にいて、僕が朝起きて犬と遊んでいると「今日は日本民藝館に濱田庄司展を見に行くよ」とか「今は上野の不忍池の蓮の花が見頃だから行くよ」とか勝手に予定を決めてくれているわけなんです。

そして、その妻が選ぶほとんどの「イベント」が僕が普段、全く興味がないものなんです。

僕は美術とか焼き物とか植物とか庭園とか全く興味がないのですが、行くとやっぱりすごくたくさんの発見があるんですよね。

やっぱり中国の皇帝がつくらせた白磁とか鬼気迫る美しさがあったりとか、日本の江戸時代の絵師の技術の高さに感動したりとか、何かと必ず新しい発見があって、僕の堅い頭がグニャリと解きほぐされる感覚が快感なんです。

ちょっと前の日曜日も妻が「今日は銀座に『マダム・イン・ニュー・ヨーク』っていう映画を見に行くよ」と言ったのですが、その日は大雨だってわかってたし、「今日は家でゆっくりしよう」と僕は主張したのですが、当然、「休日の過ごし方の選択権」は僕にはなく、大雨の中、銀座まで見に行ったんですね。

そしたらこの映画がもう涙ボロボロで、「言葉とコミュニケーション」という僕が常日頃考えているテーマを見事に描いている名作だったんです。

で、まあ、「いやあ、大雨の中、わざわざ見に来て良かったよ」と赤い目をしながら、銀座のワインバルで妻に伝えると、「まあ絶対にそう言うと思ってたけどね」と妻は言うわけです。

多くの男性が「凝り固まった一つの生活パターン」や「決まった一つの交友関係」だけで暮らしていると思います。

それだけで満足するのも「アリ」だとは思うのですが、うちの妻のように「無理矢理にでも」違う世界を見せるのも「アリ」だと思います。

ちなみに妻は必ず「それで気づいたことを原稿にして、お金にするように」と言いますが…

bar bossa (via nowonsalesjapan)

よいかんけい

(via kirikuzudo)

(via shinoddddd)


小学生になる前の幼児と、かくれんぼをしたことはありますか?

 じゃんけんに勝った子供たちは、鬼役のもとから脱兎のごとく駆け出し、思い思いの場所に身を隠します。

 鬼は、さあどこにいるかと周囲を探し始めるわけですが、それほどスリリングな体験を得ることはできません。なぜなら、隠れた子供たちはそれぞれの場所からちょこちょこと顔を出して、鬼の様子を伺うからです。

 大人の鬼なら簡単に子供の居場所を見つけてしまいます。そして、「いたぞ!」と子供を指さそうものなら、「わぁぁ!!!」。もう狂喜乱舞の大騒ぎになります。

 見つかった子供はゲームに「負けた」にもかかわらず、ものすごく喜んでいる。結局、子供にとって、かくれんぼの目的は“隠れること”ではなく、“見つかること”なのだと分かります。

 3歳ぐらいの子供であれば、「見つけてもらえた」という実感を与えるのに、かくれんぼをする必要すらありません。そこに子供がいてもいないふりをして、「あれ、どこいちゃったのかなあ」と、とぼけて見せる。で、突然、「いた!」と子供を指さす。これだけで、「わぁぁ!!!」。子供は満面の笑みを浮かべて喜びます。

 子供はきちんと指をさされることに、おそらく安心を覚えるのでしょう。“自分の存在”を確認してもらえたことに。


 大人は指さしなどされたくありませんが、自分の存在をきちんと確認してもらいたいという欲求そのものは、子供と同様です。確かに自分が「ここにいる」ということを認めてもらいたい。「存在承認」が欲しいのです。

 朝、職場で上司に「おはようございます」と声をかけたら、何も言葉が返ってこなかった。明らかに気づいているはずなのに応答がない。それだけでその日一日調子が悪くなるかもしれません。

 友達のパーティーに呼ばれて行ってみたら、友達以外は知らない人ばかりだった。誰も自分に関心を向けてくれず、壁際で独りたたずんでしまう。ちょっと胸が塞がるような居心地の悪さを感じるでしょう。

 メールをプロジェクトチームのメンバーに送ったのに、返信がない。「たぶん向こうも忙しいんだろう」とは思っても、少し心がざわつきます。

 存在承認が足りなくなってくると、人は「シンプトム」、つまり「症状」を表出させます。その種類は主に2つ。自分をアピールして関心を引こうとする「アピール型」か、陰に隠れることで逆に関心を引こうとする「隠れ型」か、です。

 アピール型のシンプトムは、不平を言う、不満を言う、批判を口にする、自分の大変さを誇示する、人の怠慢をことさらに嘆く、などなど。これらはすべてその人に対する存在承認の不足によって起きている可能性があります。健全なアピールはいいのですが、存在承認不足から生まれたアピールは周りに悪影響を与えます。

 一方、陰に隠れてしまう人もいます。話さなくなる、飲み会などに誘われても行かない、会議などで一切発言しない、遅刻する、挨拶をしない。これらは隠れ型のシンプトムである可能性があります。

 「鶏が先か卵が先か」のような話ではありますが、風通しの悪い職場では、お互いに対する存在承認が薄いので、個々が多くのシンプトムを表出させます。それによってより雰囲気はさらに悪くなり、そしてまたシンプトムが多く表れることに……。


価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。


Goは、最近では当然のものとして受け止められている(が昔は特にそうでもなかった)「プログラミングの常識」なるものを改めて問い直した言語だ。

たとえば、複雑なクラス階層のあるオブジェクト指向言語機能は、本当にプログラミングを簡単にするのに役立っているのだろうか? 例外機構はそれが持ち込むややこしさに見合う存在意義があるのだろうか? ジェネリクスあるいはテンプレートは、その複雑さ、コンパイル時間の増加、あるいはランタイムの実行性能の低下に見合うだけの価値はあるのか? スタティックリンキングに比べて複雑なシェアードライブラリは、そのコストに見合った価値がいまだにあるのだろうか?

Goが問い直してるのはそういう点だ。80年台とか90年台から今日まで我々はそういうコードを書いてきたわけだけど、その経験を踏まえてみると、昔はよかれと思ったものがが今日でもそのまま肯定的に受け入れられるというわけではないと思う。

変数名も同じだ。長い変数名は、毎回それを使うときに長い名前を繰り返し書かなければいけないほど、その名前が重要なのだろうか? ローカル変数numberOfBytesReadはnと比べて本当に読みやすいのだろうか?


必死な姿を見られるのが格好悪いとか、失敗したときのみんなの視線が怖いと考えて取り組んでいる人は、なかなか結果は出せないし、そもそも人の目を気にして、人に合わせているのは楽しくないと僕は思っている。

「格好良い」から「価値ある」製品へ--ものづくりに不可欠なデザインマネジメント - CNET Japan


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