「クリエイターに最高の作品を表現できるふさわしい場を提供する」というTumblrのミッション

http://nihongo.tumblr.com/post/50908489104

俺の知ってるタンブラーと違う…

(via miniatures)

おれもミッションを知らずに使ってた

(via k-nakae)

(via mmmmmmmmmy)


「米Yahooに買われるとロクなことにならないだろう」という反応が世界的にここまで大きかったことに改めて感慨を覚えざるを得ません。

220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 22:23:17.11
TVで「神社の鳥居は、何故“鳥が居る”という字を書くのでしょうか?」
「鳥居に止まっている鳥は何でしょうか?」というのが出た。

俺と嫁、ほぼ同時に「ヤタガラスだろ?」「ヤタガラスでしょ?」

実際の答えは「ニワトリ」で、それを聞いた瞬間、
嫁は「ああ~~常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)かあ~!!」
「オオクニヌシよりアマテラスのほうが偉いといえばそうだよね、仕方ないね」だと。
……正直、嫁の言ってることは解説をもらわんと分からないことも多いが、
一緒に暮らしていると退屈しなくていい。


222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 00:10:41.89
»220
自分の知識が手薄なところにアンテナ張ってる嫁さんって良いよね。
ウチのも俺が手が回らない範囲の情報集めて教えてくれるから有難い。


223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 11:32:14.73
»222
»220だけどレス㌧。
俺がいろいろ話すと、にこにこしながら「うん、うん」って聞いてくれるんだわ。
好奇心旺盛な嫁さんです。

後、同じ道を車で走っても、助手席の嫁の目には毎日違うことが映るみたいなんだよな。
「あーあそこの家の垣根にお花が咲いたよー」とか
「あー冬には分かったヤドリギが、もうあの木のどこかわかんなくなっちゃったよー」とか
「あーうどん屋さんとそば屋さんが目につくよーお腹すいたねー」とか。
嫁の目で世界を覗いたらどうなるんだろう、と思ったりもする。

注意したことができない子供に対して「何回言ったらわかるの」という親がいるが、その答えは、最低「40回」なのである。無意識は、それぐらいの回数をこなさなければ、今までと違う方法を受け入れてはくれない。

ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ

以前、小学校に入った年の子供がいきなり「もうこれから何もいいことが起こらないような気がする」と泣き出したのを聞いて、ぎょっとしたことがある。

クリスマスとお正月が過ぎ、三学期が始まったばかりの頃だった。楽しいことが終わって寂しくなったのか、学校で何かいやなことがあったのかと思ったのだが、その子はつぎの日高熱を出した。インフルエンザを発症したのだ。

大人であれば、風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」と表現したのだろうが、その「感じ」を六歳の子は、「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ身体と心が別物ではない、風邪に罹った身体の不調は、未来への不安として知覚されたのだ。

わたしたちは「言葉」を介して世界とふれあっている。わたしたちが目で見ているのは、「ものそのもの」ではなく「言葉」であり、「音そのもの」ではなく「言葉」であり、感覚といわれるものですら「暖かさ」「静けさ」「穏やかさ」という言葉を感じているのだ。だが、もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という言葉での分節を知る以前の赤ちゃんにとっては、何もかもが同じことなのかもしれない。

わたしは以前から眠くなった赤ん坊や幼児が泣くのが不思議でならなかった。眠たければ寝ればいいのに、何をいったいぐずぐず言っているのだ、と、眠くてぐずぐず言う弟を見て腹を立てたものだった。だが、彼にとっては、「痛い」のも「眠い」のも、あるいは母がそばにいなくて「不安」なのも、全部同じものとして感じられているのかもしれない。眠くてぐずぐず言うのを、母が抱き取って「よしよし、眠いんだね、ねんねんよ」ということで、「眠い」という分節を知り、転んで泣き叫ぶのを「よしよし、痛かったんだね、お薬をつけようね」と言いきかせて「痛い」という分節を知る。「言葉」を使うこととふるまうことが一緒に示されることで、赤ん坊は言葉の世界に入っていく。そうして言葉の使い方をある程度は知っている六歳の子は、その不安=不調を言葉でそう表現したのだ。

言葉の世界の住人であるわたしたちは、もはや言葉によって分節されなかった世界がどんなものか、想像すらできない。「わたしの身体」「わたしの手」「わたしの足の指」などというように、そんな「身体」を所有している「わたし」が身体とは別にどこかに存在しているかのような気持ちでいる。

けれど、疲れているときのものの見方は疲れていないときとはちがうし、アグレッシブな音楽を聴いていると、自然と気持ちは高揚する。気持ちに対しては嘘はつけても、身体をだますことはできない。風邪を引いたりしたときは、おそらく身体が真っ先に気づくのだ。けれど、言葉で身体と意識を隔ててしまっていると、言葉を使わない身体の声は聞こえない。身体の声を聞く回路というのは、おそらく大人になってしまえば、意識的に作り上げていかなければならないものなのだろう。


日本では中高年のインテリ男性のジェラシーすさまじい。行動原理となっているといってもいいくらいです。彼らは自分たちが刀の使い方しか習わなかったものだから、鉄砲を使って楽に成果を出すような若者は、絶対に認めたくないと思っています。

眠るために必要なタンパク質は、実は、うつにも関係してくるのだ。

 タンパク質が不足すると、怒りやイライラ、悲しみや落ち込みなどの感情を制御し、バランスをはかってくれる神経伝達物質のセロトニンが不足する。感情がうまくコントロールできなくなると、当然ながら心にトラブルを抱えやすくなる。

 タンパク質から神経伝達物質を作るには、ビタミンB群をはじめ、さまざまなビタミン、鉄分やなどのミネラルも必要だ。これをすべて考えながら食事を選ぶことは難しいが、ビタミンB群はそもそも、肉や魚、大豆製品などのタンパク源に多く含まれるものなので、メインのおかずをしっかり食べれば、一石二鳥、というわけだ。あれもこれも、という前に、まずはしっかり食べよう。


 そして、今、心の疲労感をとろうと手を出す甘いものや甘い飲み物こそ、より一層の疲れを引き起こすものになりえることを知っていてほしい。食事をきちんと食べた上での甘いものは、心の栄養になる。でも、食事の基盤ができていない中での甘いものは、心のトラブルを起こしかねない。なぜならば、急激に血糖値を上げるものを頻繁にとっていると、逆に低血糖症を起こす可能性があり、それが、疲労感を強めたり、ボーーーっとしてしまったり、イライラしたり、といううつに似た症状につながるのだ。


「効率がすべて!」という集団では、「摩擦を避けるな!」というコミュニケーションルールが徹底されており、それらの組織内コミュニケーションは(摩擦回避型の人から見ると)めちゃくちゃアグレッシブに見えます。

でも本人達はそれを「効率的で素早い意思決定ができる理想的なコミュニケーション方法だ」と思っているため、こういった組織で働く人の多くが、「自宅で、会社と同じようなコミュニケーションをして家族を怒らせてしまった・・」という経験をもっています。

家族なら後から関係修復もできますが、会社でやっている生産性重視、摩擦軽視のコミュニケーションを私的関係に持ち込んで、友達関係や恋人関係をぶっ壊してしまう人もいます。


子供が授業をよく聞くのはそこで自分が知っていることが話されている時だそうです。知っていることのほうが、興味を持つのです。面白さとは、知っていることが語られている時に生まれます。

たとえば「売り上げ2倍」という本来の目標があって、上司はそれを、「1日の訪問件数を2倍にしましょう」とか、「店での声かけ頻度を4倍にしましょう」とか、具体的な行動目標に翻訳する義務がある。目標が行動に翻訳されることで、現場には命令履行の責任が、上司には目標達成の責任が、それぞれ顆されることになる。

「売り上げ2倍」という目標を、上司に当たる人が翻訳なしに部下に伝えると、あらゆる責任が部下に集中することになる。「経営マインド」を持った現場が試行錯誤を行なって、成功すれば成果は上司に、失敗すれば「暴走した現場」の責任者はいなくなり、上司は免責される。恐らくはこうした上司が免責される構造の有無が、企業のホワイト/ブラックを分けている。


 自分の存在をきちんと確認してもらいたいという欲求そのものは、子供と同様です。確かに自分が「ここにいる」ということを認めてもらいたい。「存在承認」が欲しいのです。

 朝、職場で上司に「おはようございます」と声をかけたら、何も言葉が返ってこなかった。明らかに気づいているはずなのに応答がない。それだけでその日一日調子が悪くなるかもしれません。

 友達のパーティーに呼ばれて行ってみたら、友達以外は知らない人ばかりだった。誰も自分に関心を向けてくれず、壁際で独りたたずんでしまう。ちょっと胸が塞がるような居心地の悪さを感じるでしょう。

 メールをプロジェクトチームのメンバーに送ったのに、返信がない。「たぶん向こうも忙しいんだろう」とは思っても、少し心がざわつきます。

 存在承認が足りなくなってくると、人は「シンプトム」、つまり「症状」を表出させます。その種類は主に2つ。自分をアピールして関心を引こうとする「アピール型」か、陰に隠れることで逆に関心を引こうとする「隠れ型」か、です。

 アピール型のシンプトムは、不平を言う、不満を言う、批判を口にする、自分の大変さを誇示する、人の怠慢をことさらに嘆く、などなど。これらはすべてその人に対する存在承認の不足によって起きている可能性があります。健全なアピールはいいのですが、存在承認不足から生まれたアピールは周りに悪影響を与えます。

 一方、陰に隠れてしまう人もいます。話さなくなる、飲み会などに誘われても行かない、会議などで一切発言しない、遅刻する、挨拶をしない。これらは隠れ型のシンプトムである可能性があります。

 「鶏が先か卵が先か」のような話ではありますが、風通しの悪い職場では、お互いに対する存在承認が薄いので、個々が多くのシンプトムを表出させます。それによってより雰囲気はさらに悪くなり、そしてまたシンプトムが多く表れることに……。


何かを創り出そうというタイプの人間には多かれ少なかれ、精神的な「欠損」があります。その欠損を埋めようとするところから、何かをクリエイトしたいという欲望や欲求が生まれてくることが多いのです。もちろんそれだけじゃないけど、そういうケースはしばしば見受けられます。問題はその欠損をどこまで「普遍的なもの」にまで高めていけるかということだと思うんです。中にはその欠損の欠損性にいつまでも拘泥しているという人もいます。それでは本当の芸術にはなりませんよね。そのためには、人はもっと広く世界を見なくてはなりません。
 人生は長期戦ですから、ゆっくりとしっかり息をしながら、前に進んでいってください。
村上春樹 (via genxx) (via thinkupstudio) (via nemoi) (via flood) (via ljmp) (via jinakanishi) (via erohi, breathnoir-deactivated20120117) (via gkojax-text) (via it-shine-reading) (via kkj114) (via muhuhu)

人は自らを知るのに半生を費やす。その後で仕事が始まる。

むかしの人は言った。「夕食の客には教育のある人がよい。しかし砂漠では、教育のある人よりも何かのやり方を知っている人が必要だ。教育ある人間はいらない」。事実すでにアメリカの大学では、伝統的な教養人は、教育ある人間とさえ見なされなくなっている。そのような者は、趣味人として一段下に見られている。


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